赤崁楼は台湾の近代史の始まりの場所♪台南の歴史的観光地を巡る

赤崁楼は台南観光の目玉 台南

ニーハオ、xilinです。

台南観光でのド定番の1つである赤崁楼(せきかんろう / チーカンロウ)に行って来ました!

台南は台湾の中では京都や奈良のような言われ方をします。台湾の古都という意味です。つまり台湾の歴史を知る上では台南というエリアは重要な意味を持っています。

赤崁楼(せきかんろう / チーカンロウ)は1653年に、当時台湾の南部を占領していたオランダ軍によって造られたものです。赤崁楼に行くなら、このあたりの歴史を少しだけカジってから行くとより楽しめると思いますよ👍

赤崁楼(せきかんろう / チーカンロウ)とは

赤崁楼に行くならきっとこの3つの情報はあらかじめ知っておきたいところです。

  1. 歴史
  2. 見どころ
  3. ツアーに参加するべきか

そんなわけで、それぞれ簡単ではありますが、こちらでご紹介させていただきますね♪ 

赤崁楼の歴史的な背景

まずは簡単に赤崁楼の流れを、「①赤崁楼が建てられる前」「②赤崁楼が建てられた時」「③赤崁楼が建てられた後」の順にご紹介です。

①赤崁楼が建てられる前

時代は1600年代、日本では徳川が江戸幕府を開始するのが1603年なので、ちょうど江戸時代の頃です。歴史の授業を思い出しますね😅 その頃、ヨーロッパ諸国では世界各地に植民地をつくっていました。

澎湖(ポンフー)は台湾の中の離島

当時の台湾は『明』という名前の中国王朝が治めていたのですが、この目をかいくぐってオランダが澎湖(ポンフー)諸島を実質支配してしまいます。これに怒った明(中国)との争いが始まるのですが、明(中国)はオランダに対して『澎湖(ポンフー)を返還する代わりに、台湾本島を渡す』という条件で、この争いを終わりにします。そんなにオランダは強かったんですかね?ずいぶんな条件を提示したものです。

いずれにせよ、台湾本島を手に入れたオランダが最初に拠点を作ったのが台南です。

②赤崁楼が建てられる時

オランダが台南に入ってきた当時、台南には漢民族(中国からの移民)や平埔族(へいほぞく=台湾の原住民)が暮らしていましたが、オランダによる厳しい統治が始まります。もとから暮らしていた台湾人からすれば、突然の圧政に耐え切れない人たちも出てきてしまうのです。つまり、

反乱です😲

結論から言えば、この反乱はすぐに鎮圧されるのですが、オランダは新たな軍事拠点を置くことを決めます。それが、赤崁楼(当時のオランダの呼び方はプロヴィンティア城)です。1653年に建てられます。

つまり、赤崁楼が作られた目的は、台湾人による反乱阻止のための軍事拠点と言えますね。

③赤崁楼が建てられた後

実は赤崁楼が建てられてから10年もしないうちにオランダは、鄭成功(ていせいこう)という中国人によって降伏させられてしまいます。台湾の英雄で「三人の国神 (孫文、蒋介石、鄭成功)」の一人と言われています。

  • 1661年:鄭成功がプロヴィンティア城を落とし、東都承天府と改名する。
  • 1662年:鄭成功がゼーランディア城(今の安平古堡)を落とし、オランダを一掃する。ゼーランディア城跡に安平城を建て、王城として利用。

ここから先は、赤崁楼は歴史の表舞台には特に出てきませんが、台湾の国定古跡として登録されています。

赤崁楼の見どころ

赤崁楼の平面図

歴史を踏まえた上で赤崁楼を見てみると、「写真映えする観光地」だけではない違った魅力が見えてきます

内部の展示

赤崁楼の内部。右側の肖像画が鄭成功(ていせいこう)
台湾は四方を海で囲われた島国です。海戦が非常に大きな役割を持っていました。

オランダ統治時代の城跡

度重なる天災や暴動などで、オランダが作った当時の城部分(プロヴィンティア城)は、ほぼなくなってしまいましたが、一部だけ奇跡的に残っているのがコチラの赤レンガの跡です。

下に降りて、数百年の時の流れをじかに感じることも出来ます。

オランダ統治時代の入口

現在の入口から見て反対側
数百年前の入口。今は崩れて使えないようになっていました

赤崁楼の周辺のホテル

今のところ台南で宿泊したことがあるのがこのホテルだけということもありますが…、それでもすごく居心地のよいホテルでしたよ。おすすめです👍 

赤崁楼の行き方 / アクセス

私が行った時には園内が一部工事中。

台南駅からバスで5分です。「赤崁楼停留所」というバス停で降りれば目の前に赤崁楼が見えます。2019年の8月現在では場内が工事中だったので残念でした。

【赤崁楼】
住所:台南市中西區民族路二段212號
HP :観光局公式ページ

他にもたくさんの台南観光をしていますよ♪ ご参考まで。

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